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ファリダ・ケルファ

フランスが誇る ファッションミューズ。

  • Fashion
  • Films
  • Volume 40

フランスのファッションミューズに訊く。
Words by Daphnée Denis. Photography by Luc Braquet. Styling by Giulia Querenghi. Set Design by Déborah Sadoun. Hair Styling by Yumiko Hikage. Makeup by Ludivine François. Styling Assistance by Alice Heluin-Afchain.

それはとっさの判断だった。パン屋の帰りにばったり会った友人と、ア パートの外で夢中でおしゃべりをした。そして気がついたときはすでに「手 遅れ」だと彼女は思った。いま帰宅すれば、帰りが遅くなったことで親に叱られるに違いない。それで彼女は、計画とは呼べないような計画を立てた。それは家族、家、リヨン郊外の(低所得者向けに建てられた)公営住宅団地での暮らし、そのすべてを捨て去るというものだった。1  パンを片手にヒッチハイクで駅まで行き、列車に飛び乗った。そして車掌に見つからないよう に終点まで身を隠した。当時、ファリダ・ケルファは 16 歳。このようにしてパリに到着した彼女は、もう二度と故郷へ戻らなかった。

パリの高級地区のひとつである 8 区にあるオフィスにいるケルファの姿から、当時の苦労を想像するのは難しい。パーティガール、ナイトクラブのバウンサー、モデル、ミューズ、俳優、デザイナー、故アズディン・アライアのデザインスタジオの責任者、ジャン=ポール・ゴルチエのクチュールディレクター、ドキュメンタリー映画監督など、10 代で家出をして以来、彼 女は実にさまざまな人生を歩んできた。しかし、若者たちに写真撮影を求 められたり、ファッション業界で成功したアルジェリア系モデル第一号で 白人中心の業界の型を破ったモデルとして重要な存在だと伝えられたりすると、彼女は心から困惑した様子を見せる。「当時の私にそのような意図 はありませんでした。ただ自由な女性として生きようと必死で頑張っただ けです」と話すと部屋中に響くほど大きな声で笑った。1980 年代にはヴィ ンテージファッションのスタイルアイコンだった彼女は、いまではデザイ ナーズブランドを着こなしている。今日のスタイリングは、レザーのバギーパンツに赤リップを際立たせるダークブルーのニット。かつてトレード マークだった黒髪のロングカーリーヘアはボブカットになっている。デス クの上の壁には、アフリカンアートのコレクターでもあるケルファのコレ クションのひとつである、コンゴ人アーティスト、J・P・ミーカのカラフル な絵画が掛けられている。タイトルは《Le goût de la réussite》、つまり「成功の味」だ。2

母親が亡くなるまでの数カ月間、ケルファは母と一緒に過ごし、一家がフランスに移住する前のアルジェリアでの生活について聞くことができたと話す。彼女の家族は、その話をそれまで一度もしたことがなかったそう だ。自分の人生と前の世代の人々の人生の結びつきがようやく見え始めた 彼女は、そのことを書いてみたいと思った。書き留めることですべてを理 解できるようになると感じたのだ。「自分の物語を文字にして読んでみる と、クレイジーな内容でした。これが他の人に起きたことだったら、とても興味深いと感じるとも思いました」と、彼女は話す。「でも、なんてひどい人 生なんだ! なんて感じたことはありませんでした。一度もね」

(1) ケルファは、リヨンの南にあるマンゲットという移民集住地区で育った。1980 年代に暴動が多発し、フランスに存在す る大きな社会的格差を象徴する地域となった。
(2) 2019 年にケルファのパリのタウンハウスを特集したアラビア版『ヴォーグ』誌は、シェリ・サンバ、ジョージ・リランガ、 モケの作品を含む彼女の現代アフリカ美術のコレクションを「おそらくフランスでもっとも優れたもの」と称賛した。

「自分の物語を文字にして読んでみると、 クレイジーな内容でした」

自由への妥協なき憧れが、ケルファの軌跡を導いているように思える。 彼女は 11 人きょうだいの末っ子として、アルジェリアからフランスに移民 してきた両親のもと、1960 年に生まれた。両親は、フランスからの独立の ためにアルジェリア民族解放戦線とともに戦い、その後リヨンに移り住ん でいる。「私の両親は植民地化された状況で生まれ、解放後も植民地化され 続けていたんです」。つまり彼女の目には、両親がフランスからの支配という屈辱を決して乗り越えられなかったと映ったのである。3

幼い頃から読書好きだった彼女は、厳しい両親のもとから離れ、自由になれる場所のひとつが学校だったと説明する。「もし普通の家庭で育っていれば、大学に進学していたでしょう。普通というものが何なのかよくわ かりませんが」と話す。具体的な話には触れなかったが、自身の家庭環境を「苦痛だった」と表現した。そして姉たちが次々と家を出て行き、末っ子の 自分と両親の 3 人の生活が始まると、家から離れる決心をしたという。パン 屋の帰りにパリへ逃亡したあの運命の日以前から、ケルファは何カ月もアルジェリアのパスポートをつねに持ち歩いていたそうだ。( フランスでは、 外国人の両親から生まれた子どもに自動的に市民権が与えられないため、パスポートがなければ強制送還のリスクがある。彼女がフランス国籍を取 得したのは 30 代に入ってから。)

パリに到着後、姉の家に滞在するつもりだったケルファだが、早々とそ の選択肢はないことに気づいた。フランスの首都でホームレスになってしまったティーンエイジャーが、道を踏み外す可能性は多々にあった。しか し彼女が出会ったのは、ナイトクラブ「ル・パラス」に集うパリでもっともクールな人々だった。

ニューヨークのスタジオ 54 に匹敵するのがパリのル・パラス。かつてのミュージックホールが、赤と金のロココ調の華やかな装いに生まれ変わり、 1970 年代末にナイトクラブとして再オープン。瞬く間にジェットセッター からアーティスト、知識人、一般人まで、ありとあらゆるパーティ好きが集まり、ディスコミュージックのパワーに身を任せて一晩中踊り明かした。 オープニング・ナイトに出演したのは、モデルでアーティスト、唯一無二の パフォーマーであるグレース・ジョーンズ。イヴ・サンローランやルル・ド・ ラ・ファレーズも常連だった。さらに哲学者のロラン・バルト、プリンス、デ ヴィッド・ボウイ、ティナ・ターナー、ジャン・ポール・ゴルチエ、ウィリアム・ バロウズもよく見る顔ぶれだった。退廃的な魅力にあふれた場所だった。

「ル・パラスには誰もが行きました。著名なインテリ人も、大物の麻薬 ディーラーも、貧困地域出身の若者も。誰もが参加できる本当に不思議な場 所でした」とケルファは当時を回想する。そしてル・パラスといえば、エンドレスに続くパーティで有名だった。パリに到着してまもなく、ケルファ はエドウィジュ・ベルモアとパキータ・パキンに出会う。ベルモアはパリの パンクの象徴であり、後にル・パラスのバウンサーをした人物、そして彼女 のルームメイトのパキンはファッションジャーナリストで熱心なクラブ 通だった。ふたりはケルファにパリのパーティの裏社会とそこで生息する 夜の生き物たちについて教えてくれた。「とても楽しい人たちでした。ルックスも素晴らしかったです」4

ほとんどの夜、ケルファは踊りに出かけた。定宿がないことは問題ではなかった。いつもどこかに泊めてもらえたからだ。当時15 歳だったクリスチャン・ルブタンに誘われ、彼の母親の家で数カ月間滞在したこともあっ た。ルブタンが生地屋街マルシェ・サン=ピエールで見つけた生地でスカートを縫ってくれたという。洋服にお金をかけることはできなかったが、 いつでもおしゃれでいることが大事だった。「若かったので、なんでもクー ルで上手くいくように思えたのです。お金はなかったけれど、お金がないことを気にしたことはありませんでした。とにかく自由でした。みんな好きな時に起きて、好き勝手に過ごしていました。ゴダールの映画を生きているような気分でした」5

(3) 1954~62 年のアルジェリア戦争を経て、132 年ぶりにフランスによるアルジェリアの植民地支配が終了した。2021 年、 エマニュエル・マクロン大統領は、それまでフランス側がかつて「人道に対する罪」と呼んでいた内容を検証する「真実和解委員会」を設置した。
(4) 1970年代後半から1980年代前半にかけて、ル・パラスはファッション界の中心的存在だった。ウェイターの制服でさえ もティエリー・ミュグレーがデザインを手がけていた。
(5) ケルファの夫であるアンリ・セドゥは、クリスチャン・ルブタンの長年の友人でもあり、「Christian Louboutin」ブランド の創設者でもある。

「お金がないことを気にしたことはありませんでした。 とにかく自由でした。好き勝手に過ごしていました。 ゴダールの映画を生きているような気分でした」

当時新進気鋭のデザイナーだったジャン=ポール・ゴルチエを知るきっ かけを作ったのもル・パラスだった。ある夜、ゴルチエと一緒に働いていた 女性が、彼のショーのモデルにならないかと尋ねてきた。ケルファはゴルチエに会ってみることにした。「彼はとてもシャイで、目も合わせてくれま せんでした」と、初対面の思い出を語る。「でも、私のことを気に入ってくれ たことはすぐにわかりました。たくさん試着させてもらったのですが、ど れも着心地が良いと感じました。そしてまったくの初心者だったのにモデ ル歩きができたんです」。ケルファはモデル業にあまり真剣に取り組んで いなかった。大勢の中から選ばれることは名誉なことだと感じていたが、 彼女が育った文化の影響で自分をさらけ出すことに抵抗があったのだ。ラ ンウェイショーのバックステージでは、他のモデルのように人前で服を脱 ぐことができず、ハンガーラックの後ろに隠れて着替えをした。さらに自 称「めんどくさい女」のケルファは、自分が好きな衣装しか着なかった。他 のモデルたちが言われたものを着ているだけだと知って驚いたそうだ。自 分が気に入った数少ないデザイナーとだけモデルの仕事をした。「実のと ころ、私はとても不安だったのです」。リンダ・エヴァンジェリスタ、シン ディ・クロフォード、ナオミ・キャンベルのようなスーパーモデルたちと バックステージにいると自信喪失するのは当たり前だと付け加えた。「でも そのうちに気づいたんです。みんなが不安を感じていて、周りの様子を 伺っていたということを」

1986 年のニュース番組で、ゴルチエが親友のケルファを紹介する映像が 残っている。「私にとって彼女は、まさに美を体現しているのです」と、彼が 褒めるのを聞いて不快そうな顔でふざけるケルファ。「ギリシャ的な美し さ、まっすぐな鼻など、世界的な美の基準がありますが、私はそれ以外の美 の形もあると信じています。ファリダの横顔は素晴らしいですよ。鼻筋が 通っていて、口元も美しく、顎もしっかりとしている。彼女は私のスターな んです」と彼が続けると、ケルファは半分あきれ顔でにやにやしながら髪 をいじっている。当時、彼女は十分に理解していなかったかもしれないが、 その後も長い間、ハイエンドのファッション誌に掲載されるアラブ系のモ デルは彼女以外いなかった。フランス系チュニジア人のスタイリストで ファッション評論家のオサマ・シャビは、「ファッション業界から注目され てこなかったマグレブ人やアラブ人にとって、彼女は自分たちの民族の代 表だと感じられる存在でした」とメールで教えてくれた。「幼い頃、彼女の 容姿に親近感を覚えました。私の周りの女性たち、私の母や叔母を彷彿と させたからです。当時の私にとって、それはとても意味のあることでした」。 スーパーモデルのベラ・ハディッドが最近、鼻の整形手術をせずに「先祖 代々の鼻のかたち」を残しておけばよかったと明かしたことを伝えると、 ケルファはため息をついた。「それを打ち明けた彼女には感心するけど、同 じキャリアは積めなかったかもしれませんね」

ケルファのよく知られている写真の中には、彼女の元パートナーで ファッション写真家のジャン = ポール・グードが撮影したものがある。彼女はナイトクラブ「レ・バン・ドゥーシュ」でバウンサーとして働いていた 22 歳のときに彼と出会った。グードは『ル・モンド』誌の表紙用に彼女の写真 を撮った。横顔のショットで、彼女の黒髪のロングヘアは、果てしなく続く かのようにページを横断していた。6 表紙は、彼女を「le style beur」(ア ラブスタイル)のアイコンと宣言した(いまでは蔑称とされる「beur」という造語が作られたときからこの言葉には違和感があったと彼女は話す)。 グードは、ケルファにとってもっとも重要なコラボレーターになる、チュニ ジア人デザイナー、アズディン・アライアにケルファを紹介した人物である。ケルファとアライアの長い友情をとらえたポートレートを数多く彼は 撮影している。

(6) ジャン=ポール・グードは2020年10月のアラビア版『ヴォーグ』誌の表紙のために30年ぶりにケルファを撮影した。「彼 女はいまも変わらず、つねに魅力的だ」と、グードは語っている。

口に出して言うことはなかったが、お互い北アフリカ出身だったため、アライアとは暗黙のうちに親近感を抱いていたとケルファは言う。フィッティングのときはエジプト人歌手ウム・クルスームの音楽を流し、夜はアブ ドゥル・ハリム・ハーフェズの映画を見て過ごした。ケルファはミューズ以 上の存在だった。彼女がモデルという枠を超え、彼のデザインスタジオの代表として働くことを決意したのも、それがアライアだったからだ。また、後にドキュメンタリー映画制作の道を歩むことを決意したとき、それに立 ち向かえる自信も彼が与えてくれたのだと彼女は言う。「最高の友人でしたので喪失感も大きいです。彼を失うのは本当に辛いことでした」7

自分の物語を書き始めてみると、それがいかに「常軌を逸していたか」を 思い知らされると彼女は語る。ファッション界へ飛び込み、第一線で活躍 した黄金時代は過ぎ去ったが、彼女は過去を懐かしむことはない。時を経 ても変わらない、かけがえのない友情が何よりも大切だ。「昔からずっと支えてくれた人々を心から信頼していますし、とても感謝しています」と彼 女は言う。ナオミ・キャンベルとエル・マクファーソンは、彼女のInstagram にしばしば登場するほど仲良しだ。ゴルチエとルブタンはいまでも親友で あり、彼女が手がけた 2 本のドキュメンタリー作品の被写体にもなってい る。ケルファはカメラの前に立つよりも後ろにいる方が快適だと言い、ドキュメンタリーを手がけたきっかけについてこう話してくれた。「テレビの 司会者の仕事を依頼されたのですが、気が乗りませんでした。でもそのプ ロデューサーが、ジャン=ポール・ゴルチエのドキュメンタリー作品も担当 していると知ったので、『彼ととても親しいのでその仕事はできます。それ に本当の彼らしさが反映されている作品を見たことがないので作りたい です』と言ったのです。撮影の初日には、『私、何てことをしちゃったんだろう?』と思いましたが、実際はうまくいきました」

そしていまもなお、ケルファは世界中のファッションショーで存在感を 表 し て い る 。フランス版『Vanity Fair 』誌 は 、2022年のもっともスタイリッシュなセレブリティ30 人に彼女を選出した。同年10 月には、カタールのドーハで行われたナオミ・キャンベルが運営するチャリティーイベント 「Fashion for Relief EMERGE」のランウェイショーで、キャンベルやジャ ネット・ジャクソンと一緒にクロージングを飾った。それでも、いま一番興 味があるのは、映画監督という仕事だ。2017 年、彼女は「個人的な芸術プロ ジェクト」に集中するため、メゾンブランド、Schiaparelli のミューズとしての役割を退任した。それ以来、ストーリーを語ることに専念している。

最新作『From the Other Side of the Vei(l 原題)』(ヴェールの向こう側) で、ケルファは中東のイスラム女性を称え、そしてスカーフで頭髪を覆う 彼女らを「主体性や野心のない犠牲者」として扱うことに異議を唱えてい る。学校でスカーフをかぶることが許されていないフランスでは、これは 特に争点の多い問題だ。スカーフを含め、いかなる衣類でも女性に強制的 に着用させたり、脱がせたりするのは、「とても後進的」だと彼女は言う。「そして、学校でスカーフを禁止すれば、彼女たちは言われたとおりに外す と(フランス政府は)信じているのです……そんなことはありえません」。8 あきれた表情をする彼女の目の奥には、自分のルールで人生を切り開くた めに家を飛び出した反抗的なティーンエイジャーが映っていた。自由に導 かれてきた彼女は、個人の自由の大切さを誰よりも知っているだろう。

(7) アライアは2017年、パリで82歳の生涯を閉じた。ケルファは彼の葬儀のため、チュニジアのシディ・ブ・サイド村に足
を運んだ。
(8) 「中東の女性も世界中の女性と同じように、自分の権利のために戦っているのです」と、ケルファは映画の公開に際して 『AnOther』誌に語った。「彼女たちを犠牲者と見るのは植民地的な視点です」

「昔からずっと支えてくれた人々を 心から信頼していますし、 とても感謝しています」

(7) アライアは2017年、パリで82歳の生涯を閉じた。ケルファは彼の葬儀のため、チュニジアのシディ・ブ・サイド村に足
を運んだ。
(8) 「中東の女性も世界中の女性と同じように、自分の権利のために戦っているのです」と、ケルファは映画の公開に際して 『AnOther』誌に語った。「彼女たちを犠牲者と見るのは植民地的な視点です」

「昔からずっと支えてくれた人々を 心から信頼していますし、 とても感謝しています」

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こちらの記事は Kinfolk Volume 40 に掲載されています

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