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  • Arts & Culture
  • Volume 29

Marion Motin

マリオン・モタン

1990年代、マリオン・モタンはクラシックバレエの世界を離れ、ヒップホップの激戦区だったパリ郊外でダンス対決に挑む道を選んだ。人気振付家のモタンが、自身の信念である“直感のムーヴメント”について、さらにマドンナのツアーに同行したことで心が壊れかけた理由をダフネ・デニスに語る。 Words by Daphnée Denis. Photography by Cédric Viollet. Styling by Mélodie Zagury. Hair & Makeup by Gaëlle Bonnot. Producer by Ségolène Legrand. Photo Assistant by Victor Gueret. Agent by Clara Hautecoeur.

マリオン・モタンは子どもの頃、電源をつけたままの掃除機の上に横たわり、その振動を感じていた。「母によると感受性が豊かで日常のあらゆる奇妙な音に敏感な子でした。犬がボウルから餌を食べるときの音にまで乗って、頭を揺らしていたそうよ」と彼女は振り返る。その後、モタンはコンテンポラリーダンサー兼振付家としてキャリアを築いてきた。現在39歳。追求してきたのは、自身の魂が揺さぶられる表現だ。上手く踊るのではなく、自分の心を真っすぐに表す動き。彼女はそれを“直感のムーヴメント”と呼ぶ。自分自身の本質に深く根差した感情によって、自らが突き動かされ、表出される動きだ。

「本能的なものです。単に身体が勝手に動いてしまうというだけではなく、自分自身がその瞬間に求めている動きです。あぁ、これこそが今、私がやりたいことよ! というように」と、うなるような声をあげながら説明する彼女の身体は、目に見えない何かに引っ張られ、震えた。「内面で感じなくてはならないの。まさに自分の中からどういうわけか湧き上がってくる、リアルな感覚よ」。多忙なモタンに直接会って取材をすることはできなかったが、次善の策としてFaceTimeのビデオ通話を使うことに同意してくれた。彼女の回答を耳で聞くだけではなく、その表情も見たい、と思う私の気持ちを察してくれた。「そう、私はとても表現力が豊かなので」と彼女も認める。

モタンは、ダンサーとしてマドンナのツアーに同行したほか、ロビー・ウィリアムスやジャミロクワイのミュージックビデオ、さらにアンジュラン・プレルジョカージュやシルヴァイン・グラウドといった振付家の作品に出演してきた。振付家としての活動では、クリスティーヌ・アンド・ザ・クイーンズとのコラボレーションとなったChaleur Humaineツアーの振付や、MTVが主催するミュージックビデオの祭典で、2018年の最優秀振付賞の候補となったデュア・リパの“IDGAF”のミュージックビデオがアメリカやイギリスで特に有名だ。また、ロンドンを拠点とする伝説的なコンテンポラリーダンスカンパニーであるRambertから依頼された作品『Rouge』は高い評価を得ている。¹ モタンは現在、ベルギー出身のポップシンガーで、爆発的人気を博しているアンジェルのツアーの振付や、映画の振付指導、さらに出身地であるノルマンディー地方の劇場で行う自身のダンスカンパニーの公演準備に時間を充てている。プロフェッショナルとアマチュアの両方のダンサーと活動することに、ためらいはない。「私が舞台で見たいのは人間、ダンサーではない。実のところ、ダンスにはうんざりさせられるのよ」と彼女は言う。

モタンのダンスとの関係はつねに複雑だった。姉妹でバレエ教室に通っていた子どもの頃は、型の決められたクラシックバレエの稽古にすぐに耐えられなくなった。それよりもビデオを観て覚えたマイケル・ジャクソンのツイストやハットの技をまねたり、ジェームス・ブラウンのような勢いのあるスプリッツをしたりするほうが、ずっと好きだった。コンテンポラリーダンスに挑戦しても心は動かなかった。そして学校でアフロジャズダンスのクラスを受講して初めてダンスを楽しめるようになった。

しかし、ヒップホップは一目惚れだった。10代だったモタンが、当時母親と暮らしていたパリ13区で、たまたま参加したストリートダンスのワークショップがきっかけだった。² ようやくしっくりくるものが見つかった、と感じたという。「子どもの頃、私は強い怒りをずっと心に抱えていました。きちんと列に並ぶなんてまっぴらで、とにかく解放されたかった。その怒りを吐き出したかった!」とモタンはウーッと声をあげ、顔をゆがめる。「ヒップホップはそれを可能にしてくれる踊りよ。自分はそこにいる。そして、飛び込むの。あぁ、もう!」と言い、空中に拳を突く。「怒りは必要よ。その感情を踊りに昇華させるの」

ヒップホップは単に彼女の怒りのはけ口となったわけではない。決して簡単に習得できるものではなかった。奥深い世界だった。動きを身体で覚えるまで、何度もステップを練習する必要があった。ヒップホップ特有のフィーリングや、流れをつかむためにだ。フランスで“スマーフ”と呼ばれている高度なボディウェーブのグルーヴが気に入った。ひとつひとつの技を分解し、動きをマスターした。たとえばウィンドミルは、ブレイクダンスのなかでも特に迫力のある動きで、ダンサーは上半身の筋力だけを使い、床でスピンしなければならない。「脚を引っ張りながら、肘を押すコツをつかまないとできないのよ。わかるかしら? でも、とても理にかなっているところがあって、私は確信したの。そうか、正しくできるようになるには、練習あるのみだって」とモタンは言う。

1990年代後半、ラップ音楽やそれに関連する文化は、フランスのメインストリームからは大きく外れていた。モタンは放課後、仲間とともに地元のショッピングモールで練習し、路上で踊った。パリでもっとも利用者の多いシャトレ-レ・アル駅にも繰り出した。そこは当時、ダンサーたちが自然と集まり、ヒップホップバトルが繰り広げられていたバンリュー(フランス語で郊外の意味)に向かうための最短ルートの駅だった。ダンス対決は激しかった。しかし今でも、モタンのダンサーとしての一番の思い出は、あの戦いの場にある。「とても怖かったわ。でも同時に、バトルに勝てば、もう最高の気分よ。ただ、負けたときは、どうってことないって振りをするの」と言い、モタンは大笑いする。「でもちょっとやりすぎだったわね。今はそんなことはしなくなった。自分の感情を大切にしたいから。どんなときもタフに見せようとすると、結局自分が苦しくなるだけだったわ」

大学で文学と心理学を学んだモタンだが、入学の時点ですでにプロのダンスグループであるQuality Streetの数少ない女性メンバーとして活動していた。フランスのヒップホップ界では、白人女性であることは一切問題ではなかった、と彼女は断言する。「ヒップホップでは、才能があれば黒人であろうと、経験が少なかろうと、ゲイあるいはトランスジェンダーであろうと関係ない。すごい技ができれば、すごい。それだけのこと。私がヒップホップが好きな理由はそこよ」。それでもなお、モタンは2009年に女性だけのダンス集団、Swaggersを結成した。女性を結束させ、異なる種類のエネルギーを放つためだ。

NOTES

1. ダンスカンパニーRambert から依頼された振付作品『Rouge』は、モタンにとって、とりわけ大きな実績となった。同舞踊団がコンサートや映画などの商業的な分野で活躍する振付家と協業することはめったにないからだ。おもに即興で構成される群舞で、私たちが窮地に追い込まれたとき、いかに自らの力を再生するかを探求する作品だ。

2. フランスでヒップホップの影響力が拡大したのは1990年代。1997年にはマルセイユを拠点とするIAMがリリースしたアルバム『L’école du Micro d’Argent』が100万枚の売り上げを記録した。IAMは、反移民感情が高まった際に、アラブやアフリカ系の民族アイデンティティを擁護しようと、古代エジプトにちなんで掲げられた“ファラオニズム”の思想で知られている。

モタンのダンサーとしてのキャリアは、早い段階から軌道に乗り始めた。2000年代初めには、スペイン出身の振付家、ブランカ・リーによるブレイクダンスが主題の映画『Le Défi』(挑戦)に出演した。当時の恋人が受けるオーディションに同行したことがきっかけだった。テレビ番組や数多くのポップアーティストのバックダンサーを務め、やがてさまざまな振付家と作品を作るようになり、活動範囲を広げていった。たとえば、シルヴァイン・グラウドとの出会いを通じ、彼女はヒップホップ以外のダンスにも目覚めたと言う。アンジュラン・プレルジョカージュと一緒に仕事をした際には、ダンスのステップだけではなく、ショー全体を構想する彼のストーリーテリングの手法に刺激を受けた。

モタンのキャリアの頂点は、彼女がダンサーとして参加したマドンナのツアーだと考える人は多い。しかし実のところ、その仕事によってモタンはキャリアのすべてを自ら捨て去る瀬戸際に立たされたのだった。2012年、厳しいオーディションを通過したモタンは、マドンナの世界ツアーで、誰もが望むポジションを獲得した。ツアー仲間たちの才能に感銘を受け、大観衆の前で毎日のようにパフォーマンスを行うことに圧倒され、感動した。それにもかかわらず、モタンは自分がやっていることの意味を見いだすことができず、苦しんだ。あれほど厳しい特訓をしてマスターしたヒップホップの動きに、自由を奪われたような気持ちになった。世界的な人気を誇るポップスターのために仕事をするということは、そこで個性を打ち出す余地などないことはわかっていたが、どうしようもなかった。「その場にいることをとても幸運に思っていたけれど、自分が退屈に感じてしまう振付で踊っていることに気づいたのです」と彼女は言う。「しかもそれをステージで300回繰り返さなければならない。動きは何ひとつ変えてはいけない、小指さえもね。だから、しばらくすると苦痛になった。他人のストーリーを伝えるのは、もうまっぴらだと思ったの」

ツアーから戻ったモタンは、もう一生踊ることはないかもしれない、と思った。再び動き出すには、自分の魂が揺さぶられるような踊りに、もう一度めぐり合う必要があることはわかっていた。それには1年かかった。魅力的だと感じる曲を聴きながら、新しい動きが見つかるまで音楽に身を任せた。その動きの表現には意味があった。誰かに教えられたものではなく、内面から湧き上がってきたものだったからだ。彼女は、前進するためにヒップホップ音楽を手放す、という思い切った決断を下す。「私はヒップホップに囚われていました。新しいアイデアが浮かばなくなってしまっていたのです」と言い、片方の目に拳で円を描くしぐさをする。「まるでこんな風に物事を見ていたのが、次の瞬間、フッと消えていたの」。彼女が握りしめていた手をパッと開くと、視界が広がった。

これがモタンの振付家としての出発点となった。2013年のブログには、自身が結成したSwaggers とともに「舞台ですべてをさらけ出す」と綴っている。こうして彼女の初めてのショーとなる『In the Middle』が誕生した。作品の冒頭から世界観が作り上げられている。今は亡きメキシコ系アメリカ人のフォークシンガー、ラサ・デ・セラによる“El Desierto”の人を陶酔させるようなハーモニーが空間に響き渡るなか、黒い衣装を身につけたモタンが、暗い舞台上に現れ、鋭い光のスポットに足を踏み入れる。すると突然、彼女の身体はまるで何かにとりつかれ、磁力の波に押し流されるかのように前後に揺れ始める。ひとつひとつの動きは衝動的に見えるが制御されていて、激しさと滑らかさが交じり合う。まるでフラメンコダンサーの身体にヒップホップのウェーブの動きが乗り移ったようだ。すると、彼女の踊りが柔らかくなる。光のスポットが舞台上のあちらこちらに出現し、モタンの動きを模倣する他のダンサーたちの姿が浮かび上がる。彼らが断続的にシンクロする様子はまるで催眠術のようだ。そしてひとりひとりが集団から分離し、順番にスポットの中でソロを踊ることによって、個性を取り戻していく。「私は私がやりたいことをやる。それはヒップホップの根本的な考え方でもあるわ。私の人生哲学ね。ヒップホップはもう踊らないかもしれないけれど、それ自体には今でも深く共鳴しているわ。私は自分の心が弾むなら、どこにだって行くのよ」とモタンは言う。

ベルギー出身のミュージシャンであるストロマエとの出会いは、確かに心躍るものとなった。クリスティーヌ・アンド・ザ・クイーンズとの作品作りも同様だ。ふたりとも、自分たちのショーは、音楽を超える体験を提供するものだと考える、明確なビジョンを持ったアーティストだとモタンは語る。彼らは照明や演出など、細部に至るまで自分の意見を述べる。モタン自身の舞台への姿勢にとても似ている。「彼らに振付をしたら、素晴らしいものができあがるのがわかるのです。一緒に考え、力を合わせて取り組めるからよ。芸術監督と歩調が合わないときは、作った振付を見ても、全然だめね。まるで1980年代のひどいイタリアのテレビ番組みたいって思うわ」と彼女は言う。

「怒りは必要よ。その感情を踊りに昇華させるの」

ストロマエとの初めての仕事は、“Papaoutai”のミュージックビデオの振付だった。ルワンダの大虐殺で父親を殺されたストロマエが、父親がいないなかで成長した自分自身について歌った曲だ。モタンとストロマエは、もともと面識はなかった。モタンは彼が即興で踊る姿を撮影した動画を見せ、緊張感がそのまま表れているぎこちない動きのほうが、きれいに踊ろうとしたときよりもずっと良かったと伝えた。彼の身体に内面を映し出す必要があった。ビデオでは身長約190センチで細身のストロマエが、動きのないマネキンを演じている。しばらくすると、マネキンは少年時代の自分自身と並び、突然怒りのダンスを繰り広げる。発作によって混乱し、時折地面に崩れ落ちそうになる長身の彼の姿は、苦痛に襲われる歌のなかの少年だ。ダンスの長さは20秒ほどだが、ひとつひとつの動作によって胸が裂けるほどの悲しみが伝わってくる。

クリスティーヌ・アンド・ザ・クイーンズについてモタンは「粗野で、繊細で、優雅であることを同時に実現できる」と称賛する。さらに、彼女が踊る姿には魂が感じられると言う。「私はダンスそのものには興味がありません。人が踊る姿を見るのが好きなのです。ダンサーが、ダンサーのように倒れるときがありますが、そういうのは嫌いです。生身の人間が倒れるように、倒れてほしいと思うのです」。モタンは『Rouge』の振付にもこうした考えで臨んだ。業界最高のプロのダンサーたちにモタンが求めたのは、型を破ることだった。つまり一糸乱れぬクラシックバレエの群舞のような演技をやめる、ということだ。「個人として存在感を出してもらいたいと思ったのよ」と彼女は言う。

仕事の依頼が次々と舞い込み、つねに各地を飛び回っているモタンだが、今はノルマンディーに居を構えている。そこは幼い頃に何年か暮らした地で、彼女がパートナーと初めての子どもを育てるために選んだ場所だ。人口が20,000人に満たないサン=ローの街で、もう一度、自分らしいと心から思えるショーを作ろうと、8人のダンサーと1人の役者とともに、舞台の準備を進めている。踊っていると、今でも時々何も感じなくなるときがあると言う。たまにくじけそうにもなる。そして、全身で生を実感できるときがある。ひとつひとつの動きが、喜びとなる瞬間だ。モタンは目を閉じ、首を回す。「素晴らしい感覚よ。この瞬間を生きているという感じ。ただ自分の身体で、その内にあるものを感じとる。何にでもなれるって思えるわ」と言い、彼女はささやく。「最高ね」

「自分の感情を大切にしたいから。どんなときもタフに見せようとすると、結局自分が苦しくなるだけだったわ」

「自分の感情を大切にしたいから。どんなときもタフに見せようとすると、結局自分が苦しくなるだけだったわ」

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こちらの記事は Kinfolk Volume Volume 29 に掲載されています

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