今日、モンレアルと私は、ニューデリーでもっとも密集した貧困地 域のひとつであるニザマディン・バスティにいる。現在も礼拝に使わ れているデリー最古のモスクであるジャマート・カーナの尖塔を中心 に、テトリスのブロックのように建物が無秩序に並んでいる。この地 域は、14世紀のスーフィー(イスラーム神秘主義)の聖者であるハズ ラット・ニザマディン・アウリヤにちなんで名づけられている。ここ にはニザマディンが埋葬されたダルガー(霊廟)もある。巡礼者に とって聖地である。毎日、何千人もの人々が狭い路地を通り抜け、年 間推定400万人が霊廟を訪れる。ニザマディン・バスティにいると、 まるでエドウィン・ロード・ウィークスが描いた絵の中にタイムス リップしたかのような気分になる。バラの花びらやジャスミン、揚げ たてのスナック菓子、香水オイル、生ゴミ、噛みタバコなど、さまざ まな香りが混ざり合い、刺激的な空気に包まれている。
16世紀半ばから19世紀初頭まで、インド亜大陸の広範囲を支配し たムガル王朝は、ニザマディン・バスティ周辺に、墓廟や宮殿、その他 の建造物など、珠玉の建築物を残した。AKTCは資金パートナーとと もに、ニューデリーで教育プログラムや医療施設を運営し、大規模な 改修工事を実施している。モンレアルによれば、このような活動は 「建築は社会の役に立つもの」というアガ・カーンの信念から生まれ たものだという。
1997年以来、AKTCはインド国内で、異なる政治的立場を持つ政府 や、インド考古学調査局、中央公共事業局、デリー市公社など、複数 の中央・州機関とパートナーシップを築いてきた。「このような大規 模なプロジェクトは、私たちのような民間機関だけでは対応できま せん。地元の公共のパートナーが必要なのです」とモンレアルは語 る。「市民の観点からも非常に重要です。さまざまな組織やパート ナーとの協力があってこそ、修復された建築が市民に開放され、利用 が可能になっているのです」
ニザマディン・バスティから少し歩いたところにあるスンダー・ ナーサリーは、90エーカーもの広さを誇る緑地である。近隣の狭い 路地の密度とは対照的に、穏やかな雰囲気を醸し出している。16世紀 にイギリス人が、大英帝国のほかの地域から輸入した植物の苗木を 栽培、実験する植物園として設立された場所だが、長年放置されてい た。AKTCの尽力により、伝統的なイスラム庭園の原則に従って幾何 学的かつ形式的に再構築された。四方に流れるイスラム建築特有の 水路が秩序を感じさせる。クジャクが飛び交う光景は、まるでムガー ル帝国時代の細密画に命が吹き込まれたかのようだ。
モンレアルは、歴史的プロジェクトに対するAKTC独自の視点が、 地域社会に強く影響を与えたと話す。「ごく最近まで、多くの公的機 関や政府間機関は、文化遺産を不活性資産だと見なしていました。当 基金は25年前から、文化遺産は雇用や社会経済的発展、文化的理解を 生み出す、経済的に持続可能で、収益を得るために役立つものだとい う考えを広めてきました。私たちのように、保護、社会開発、教育と いう視点で歴史的都市に関わっている団体はほとんどありません。 この手法は、すべての側面を融合させ、ひとつのプロジェクトとして 持続させることができます」
砂漠地帯で生まれたイスラム教にとって、水や花、木は象徴的な存 在で、人々と強いつながりがある。アラビア語には「庭」や「楽園」を意 味するジャンナトという言葉があり、正しい生活を送った者にとっ て至福の永遠の安息の地、天国も意味する。イスラム建築には、自然 の壮麗さとの象徴的な結びつきが強く表れている。だからこそ、本来 であれば自然がないような場所に緑地をもたらしたスンダー・ナー サリーの修復は、AKTCのもっとも影響力のある取り組みであったと いえるだろう。さらに、カブールやカイロなど、政府の優先事項に公 園が入っていない国においてもAKTCは公園を整備し、管理し続けて いる。
その第一号はカイロのアル・アズハル公園だった。1984年、エジプ トの建築家ハッサン・ファトヒーの自宅の屋上からカイロの街を見 渡したアガ・カーンは、都市公園の建設資金を提供することを提案し た。当時、カイロの人口1人当たりの緑地面積は、世界で最小レベル だったのだ。しかし、その提案から約20年が経過した2002年にモン レアルがAKTCで仕事を始めたとき、公園はまだ建設されていなかっ た。というのも、AKTCに提供された土地は、手がつけられないほど 瓦礫と廃棄物で埋め尽くされた75エーカーの高台のアル・ダラサ丘だったからだ。「目の前にある社会問題に取り組むことなく、現代的 な公園だけを作ることは無理でした」とモンレアルは説明する。
「目の前にある社会問題に取り組むことなく、現代的な公園だけを作ることは無理でした」