モタンのダンサーとしてのキャリアは、早い段階から軌道に乗り始めた。2000年代初めには、スペイン出身の振付家、ブランカ・リーによるブレイクダンスが主題の映画『Le Défi』(挑戦)に出演した。当時の恋人が受けるオーディションに同行したことがきっかけだった。テレビ番組や数多くのポップアーティストのバックダンサーを務め、やがてさまざまな振付家と作品を作るようになり、活動範囲を広げていった。たとえば、シルヴァイン・グラウドとの出会いを通じ、彼女はヒップホップ以外のダンスにも目覚めたと言う。アンジュラン・プレルジョカージュと一緒に仕事をした際には、ダンスのステップだけではなく、ショー全体を構想する彼のストーリーテリングの手法に刺激を受けた。
モタンのキャリアの頂点は、彼女がダンサーとして参加したマドンナのツアーだと考える人は多い。しかし実のところ、その仕事によってモタンはキャリアのすべてを自ら捨て去る瀬戸際に立たされたのだった。2012年、厳しいオーディションを通過したモタンは、マドンナの世界ツアーで、誰もが望むポジションを獲得した。ツアー仲間たちの才能に感銘を受け、大観衆の前で毎日のようにパフォーマンスを行うことに圧倒され、感動した。それにもかかわらず、モタンは自分がやっていることの意味を見いだすことができず、苦しんだ。あれほど厳しい特訓をしてマスターしたヒップホップの動きに、自由を奪われたような気持ちになった。世界的な人気を誇るポップスターのために仕事をするということは、そこで個性を打ち出す余地などないことはわかっていたが、どうしようもなかった。「その場にいることをとても幸運に思っていたけれど、自分が退屈に感じてしまう振付で踊っていることに気づいたのです」と彼女は言う。「しかもそれをステージで300回繰り返さなければならない。動きは何ひとつ変えてはいけない、小指さえもね。だから、しばらくすると苦痛になった。他人のストーリーを伝えるのは、もうまっぴらだと思ったの」
ツアーから戻ったモタンは、もう一生踊ることはないかもしれない、と思った。再び動き出すには、自分の魂が揺さぶられるような踊りに、もう一度めぐり合う必要があることはわかっていた。それには1年かかった。魅力的だと感じる曲を聴きながら、新しい動きが見つかるまで音楽に身を任せた。その動きの表現には意味があった。誰かに教えられたものではなく、内面から湧き上がってきたものだったからだ。彼女は、前進するためにヒップホップ音楽を手放す、という思い切った決断を下す。「私はヒップホップに囚われていました。新しいアイデアが浮かばなくなってしまっていたのです」と言い、片方の目に拳で円を描くしぐさをする。「まるでこんな風に物事を見ていたのが、次の瞬間、フッと消えていたの」。彼女が握りしめていた手をパッと開くと、視界が広がった。
これがモタンの振付家としての出発点となった。2013年のブログには、自身が結成したSwaggers とともに「舞台ですべてをさらけ出す」と綴っている。こうして彼女の初めてのショーとなる『In the Middle』が誕生した。作品の冒頭から世界観が作り上げられている。今は亡きメキシコ系アメリカ人のフォークシンガー、ラサ・デ・セラによる“El Desierto”の人を陶酔させるようなハーモニーが空間に響き渡るなか、黒い衣装を身につけたモタンが、暗い舞台上に現れ、鋭い光のスポットに足を踏み入れる。すると突然、彼女の身体はまるで何かにとりつかれ、磁力の波に押し流されるかのように前後に揺れ始める。ひとつひとつの動きは衝動的に見えるが制御されていて、激しさと滑らかさが交じり合う。まるでフラメンコダンサーの身体にヒップホップのウェーブの動きが乗り移ったようだ。すると、彼女の踊りが柔らかくなる。光のスポットが舞台上のあちらこちらに出現し、モタンの動きを模倣する他のダンサーたちの姿が浮かび上がる。彼らが断続的にシンクロする様子はまるで催眠術のようだ。そしてひとりひとりが集団から分離し、順番にスポットの中でソロを踊ることによって、個性を取り戻していく。「私は私がやりたいことをやる。それはヒップホップの根本的な考え方でもあるわ。私の人生哲学ね。ヒップホップはもう踊らないかもしれないけれど、それ自体には今でも深く共鳴しているわ。私は自分の心が弾むなら、どこにだって行くのよ」とモタンは言う。
ベルギー出身のミュージシャンであるストロマエとの出会いは、確かに心躍るものとなった。クリスティーヌ・アンド・ザ・クイーンズとの作品作りも同様だ。ふたりとも、自分たちのショーは、音楽を超える体験を提供するものだと考える、明確なビジョンを持ったアーティストだとモタンは語る。彼らは照明や演出など、細部に至るまで自分の意見を述べる。モタン自身の舞台への姿勢にとても似ている。「彼らに振付をしたら、素晴らしいものができあがるのがわかるのです。一緒に考え、力を合わせて取り組めるからよ。芸術監督と歩調が合わないときは、作った振付を見ても、全然だめね。まるで1980年代のひどいイタリアのテレビ番組みたいって思うわ」と彼女は言う。