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  • Volume 31

アメリカを代表するオルタナの女王、ミランダ・ジュライ。彼女が25年間以上という歳月にわたり掲げてきた哲学は至ってシンプルなものだった。それは「楽しく生きる。人生のつらさは芸術で表現する」というもの。ジャンルを超えた芸術を創造するミランダ・ジュライが、人生の恐怖、喜び、そして言葉にならない不気味さを作品に注ぎ込むことについてロバート・イトーにロサンゼルスで語る。

ミランダ・ジュライにできないことなどあるのだろうか? 彼女にこんな聞き方をしたら、完全にイヤな奴だと思われてしまうので遠回しに尋ねた。「今までに試したことで、うまくできなかった、あるいは結果が思わしくなかった経験はありますか?」ジュライは考え込み、そして20代の頃、作る予定だったが実現しなかった短編映画の三部作があったと話してくれた。今では幻となったその三部作のタイトルは『Modern Water』だったそうだ。「壮大なアイデアが浮かんで、どんなに大興奮しても、結局失敗に終わることもあるのだと気づいたことを覚えています。もう二度とこんなこと繰り返しちゃいけない、と時思いました」

彼女にこのような失敗談があるとは信じがたい。ジュライの30年におよぶ変化に富んだ芸術家としての輝かしいキャリアを、かいつまんで紹介しよう。まず、作家として賞を獲得した短編小説集『いちばんここに似合う人』や長編小説『最初の悪い男』を執筆。マルチメディア・パフォーマンス・アーティストとして『Love Diamond』や『The Swan Tool』を制作。映画監督としては、カンヌ国際映画祭でカメラ・ドールを受賞した2005年の『君とボクの虹色の世界』や今年新型コロナウィルスの感染拡大防止のため公開が遅れた『Kajillionair』など。さらに、靴のデザインや(イスラムやユダヤ教など)異教徒による合同チャリティショップを手がけただけでなく、インディーズバンドのボーカル、短期間だけ続いたzineの共同発行者という経歴も。しかも若干16歳で、脚本と監督を務めた劇が劇場公演されている(殺人罪で終身刑を受けた囚人との手紙のやりとりを題材した作品だった)。その四半世紀後、ジュライはポップシンガーのリアーナのインタビューに向かう途中で出会った、西アフリカ出身のUberの運転手の人生をテーマにしたアート作品を発表。他にも、過去に送信したメールを題材にしたプロジェクト、ロマンス小説、頭や腕を入れることができるファイバーグラスのオブジェなど、多種多様な作品を制作している。「時々感じるのですが、私は多くの媒体を扱うので本業が作家なのか、それとも映画監督なのか良くわからないと思われているのではないでしょうか。世間の人々は、ひとつのことに焦点を絞った、わかりやすいものが好きですからね」

今日ジュライは、ロサンゼルスの写真スタジオにいる。自動車保険の代理店とマットレス店の間にある、何の変哲もない「ダスト・スタジオ」で写真撮影をしている彼女は、先ほどまで紫のビキニトップと黒のビキニパンツの上にグリーンのチェック柄のジャケット、そして足元はハイヒールという姿だった。そして今は、白い小花のモチーフがついたダークブルーの着物風のコートを着ている。そして真っ赤な唇。彼女がまだアーティストや小説家として駆け出しだった頃に学んだことのひとつは「喜びという感情の役割」だったという。「楽しい時間を過ごしてこなかったわけではありませんが、喜ぶということを第一に考えていませんでした。私の育った環境では、喜びに価値を見出していなかったのです。小さい頃、悲しんでいる私に対して、父がこう言ったのをはっきりと覚えています。『でもさ、悲しい気持ちって興味深くないかい?』って。私も同感です。悲しみはおもしろいですよ。喜びだっておもしろい。すべての感情は興味深いと思います」

今回の取材は、最近の出版や新作映画について彼女に話が聞ける、絶好の機会だった。今年の4月、自身の名前をタイトルにしたモノグラフ『Miranda July』がPrestel 出版から発売された。同書は、メモ書き、zineの誌面、映画のスチール写真などを通して、彼女のアーティストとしての作品とプライベートの顔を紹介し、さらにリック・ムーディやキャリー・ブランスタイン、レナ・ダナム、スパイク・ジョーンズといった彼女の仕事仲間や友人たちがコメントを寄せている。また同じく4月には、彼女の長編映画のキャリアの出発点となり、インディーズ映画の寵児としての地位を確固たるものにした映画『君とボクの虹色の世界』が、世界の名作のみを収録するクライテリオン・コレクションの仲間入りを果たすという栄冠を手にした。

Set Design by Gabriela Cobar.
Hair by Dennis Gots.
Makeup by Natasha Severino.
Nails by Naoko Saita.

この取材が行われた時点では、長編3作目となる『Kajillionaire』は秋に劇場公開される予定だったが、コロナウイルスの状況で公開が遅れる可能性もあった。同映画では、リチャード・ジェンキンスとデブラ・ウィンガーが小さな詐欺を繰り返しながらロサンゼルスで生活を送る夫妻を演じている。(そのターゲットとなるのは瀕死の老人、小規模な郵便局など。)エヴァン・レイチェル・ウッドが演じる詐欺師夫妻の娘も、生まれた頃からこの“家業”に巻き込まれている。個人的にはこのようなタイプの親は救いようがないと感じるが、8歳の子どもの母親でもあるジュライの考えは、より寛容だ。「人生には物事がしっくりこないとか、つらい経験をしていた、というような時期が誰にあってもおかしくないと思います」と彼女は話す。「そして、あなたの子どもの“子ども時代の全期間”とあなたの“つらい時期”がちょうどぶつかってしまうこともありえます。親にそういう期間があったからという理由だけで、ひどい親というレッテルを貼るのはあんまりです」。たしかに、親に完璧さを求めてはいけないのかもしれない。

ジュライは本来なら、新作の宣伝で目まぐるしい日々を送っているはずだった。しかし彼女が暮らすロサンゼルスもまた、世界の他の多くの地域と同様に、新型ウイルスのパンデミックのせいで生活がひっくり返ってしまった。ジュライと彼女の夫であるインディーズ映画監督のマイク・ミルズは、学校や夏季休暇のキャンプが閉鎖されている現在、子育てを分担している。そのため、以前に比べて仕事ができる日が事実上半分になってしまった。「以前は、思うようにことが運ばなくて少し感情的にパニック状態になっても、気持ちを修復するための時間を設けることができました。でも、今は違います。パニックになるか、仕事をするかのひとつしか選択できません。両方という選択肢はありません」

それでも、彼女は新たな小説を書き始めたり、Instagramを活用した「Jopie」(ジュライの指揮のもと、彼女のフォロワーたちやその家族が演技をするというもの)の第一弾を含む、新プロジェクトを始動させたりする時間をみつけている。他にも、まだ情報を公開できない他のプロジェクトにも精力的に取り組んでおり、またブラック・ライブズ・マター運動やこれまでの警察による暴力事件について知識を深めるよう努力し、同時にTwitter の28万人以上のフォロワーにも、そうすることを呼びかけている。「他の多くの人たちと同様に、これを機に私も変えられることは変えたいと思っています。今は黒人の平等権にとって非常に大切な瞬間です。私は、革命が起きているのを知りながら、見て見ぬ振りをするような人にはなりたくないのです。むしろ、私自身がブンブン振り回されて、すべてが台無しになってもいいと思っています。たとえそれがつらい日々をもたらし、途方に暮れることになったとしても」

2005年に『君とボクの虹色の世界』が公開されると、ジュライは“一般人の類に入るミランダ・ジュライ”から、“一般人に声をかけられるミランダ・ジュライ”へと変化を遂げた。ジュライが演じるビデオアーティストを夢見る高齢者用タクシードライバーの主人公が、靴売場の店員(ジョン・ホークス)と恋に落ちるという内容の同映画は、批評家たちに大きな衝撃を与えた。『ワシントン・ポスト』紙は「鋭い脚本」、さらに『ニューヨーク・タイムズ』紙は「大きく開いた目で、いぶかしげに世の中を見ている」と評した。作中に出てくる))<>((というアスキーアートのタトゥーを、手首や足に彫るファンも出現。“お互いのおしりの穴にうんちを永遠に出し入れしている”という意味のこの記号は、脳裏から離れないほどの強いインパクトを持つ。同映画が審査員特別賞を獲得したサンダンス映画祭のパーティは、ジュライがのちに夫になったミルズと初めて会った場所だ。「賞を得て私の人生が大きく変わったのと、彼と初めて会った日が同じなので、『先週まで私の人生はこんなんじゃなかった』と彼に言っても理解してもらえませんでした」と彼女は話す。「先週までの私がどんな風だったか彼は知らないのですから。だから私は『これは本当の私ではないの! 私の人生はこんなんじゃなかったの』って言いました」

「悲しみはおもしろいですよ。喜びだっておもしろい。すべての感情は興味深いと思います」

彼女の人生の分岐点となったこの映画を、改めて観るというのはどのような気分かと尋ねると、「公開された後の映画は、あまり観ないんです」と彼女は笑いながら言った。「クライテリオンのリリースのために、少しだけYouTubeで観ましたけれど。今考えてみると、こんなやり方でよくも許されたなと自分でも驚いています」

他にも彼女が特別に“許された”ことといえば、6歳の少年が出会い系チャットで知り合った中年女性と交わす下ネタや、女子高生ふたりが近所の成人男性に性的ないたずらをするといったシーンだろう。「ですから、私は小児性愛などで非難されることがたまにあります。そういう時は『はい、そうですね』という気持ちになります。なぜなら“子ども”と“性的関心”という考えをふたつ並べて、何かひどく間違った事態が発生するという視点で物事を見たら、あの映画を不快に思うのは当然だと思います。実際にそう感じた人たちもいました。でも、もうひとつ言えることは、私がまだとても若かったということです。当時の私は大人に成り立てで、子ども時代のほうが長かったのです。ですから、あの時点で自分が一番よく知っていることについて書きました。それは少女、子どもであるということ。私が演じたキャラクターの職業については知識がありましたが、他の登場人物に関しては、私が想像した大人像のゆるいスケッチのようなものでした」

ジュライが演じたキャラクターの強い印象もあり、公開後は多くのファンが主人公クリスティーンと彼女を強く結びつけた。才能豊かで創造的だが、予測不能で情緒不安定な変人。しかし今ではそう思われることが減ってきている。「良いことだと思っています。というか、『よくやったね』と自分を褒めてあげたいです。だって、以前は突然知らない人が近寄ってきて『ハグしてあげましょうか?』なんて言われていたのですから」と彼女は語る。「クリスティーンという人物には、そうさせる何かがあったのでしょうね。実際の私はそういうタイプではないのです。私のことを知っている人だったら『いやいや、彼女はあなたのハグなんていらないよ!』って思うでしょうね」

ハグをしたくなるかは別として、ジュライの作品の多くは人と人のつながりを探求するものだ。私たちが必要としているつながりを、実際にはどれほど得られていないかを表現している。この点は、これまでのキャリアをまとめたモノグラフにも反映されている。ジュライは、ノート、日記、過去のプロジェクトに関連したものに目を通す作業のことを、クローゼットの整理に例えている。しかし、彼女の場合のそれは近藤麻理恵さんの“こんまりメソッド”のようにときめきを与えてくれない。この作業は非常につらいものだったと彼女は話す。「私のやり方は、自意識過剰にならないように、また当時どのように作ったのかは考えないように気をつけながら、今までの道のりを振り返る、というものでした。ライターやアーティストの多くは、自分を傷つけないためなら手段は選ばないと思います」

今撮影現場では、赤い衣装に身を包んだジュライが目を閉じている。フォトグラファーの前で、手を使ってかっこいいポーズをきめている。曲はプリンスの“1999”が終わると、デュア・リパの“Don’t Start Now”に変わった。休憩中に彼女はモニターを覗き込み、進行具合をチェックしている。撮る側、撮られる側の両サイドを知る彼女なら、もしも必要であれば、今回の撮影でもひとりで何役もこなせたことだろう。

しかし彼女は、他の人に仕事を任せること、そして彼らの意見に耳を傾ける術を学んだ。実際、モノグラフの企画の初期段階では、ジュライ自身が自分について執筆する予定だった。長年作家活動を行い、同書について誰よりも把握している彼女ならそれが可能だからだ。けれども最終的には、周りの人に彼女について語ってもらうことに決め、友人やコラボレーターの回想をプロジェクトごとに集録した。彼らが語るジュライのエピソードはリアルで興味深い。たとえば、皮膚の軟膏を万引きして見つかった時、ジュライが恐怖でスーパーの床におもらしをしたこと(これは女優であり現在エマーソン大学で教えるリンジー・ビーミッシュが語っている)や、ポートランド時代に若いアーティストとして生きるためにやらざるを得なかったさまざまなこと。「私が息を呑むほど驚いた暴露話もありますよ。『まあ、世間に知られても別にいいかな』と思いました」とジュライ。

今、彼女は『Kajillionaire』の公開を心待ちにしている。この映画は自分の両親についてではない、と主張しているものの、彼女の育った環境と重なる部分もあるそうだ。それは、どの家族も自分たちのやり方が正しくて唯一の方法だと思っていること、そして子どもの頃に感じるお金についての一般的な不安という点だ。「この映画の草稿を書き上げたときは、自分の家族と関連しているなんて気がついていませんでした」。同映画が照らしている子育てや親というテーマは、ジュライ個人が母親として感じている恐怖心が元になっており、さらに「それを悪化させているのは自分のせいかもしれない」とも語った。あらゆる意味で、彼女の映画は日常生活のための予行練習のようなものだと考えているそうだ。かなり極端な練習ではあるが。「芸術とは、そういう一面があるものなのだと思います」と彼女は言う。

「映画の最後に猫が死んだことを、まだ根に持っている人たちがいるんですよ」。その猫とは、2011年の長編映画『ザ・フューチャー』に登場するケガした保護猫パウパウのことだ。同作品でジュライは、猫の里親になる予定の30 代女性とその猫の話し声を演じている。最終的にパウパウは死んでしまうが、それも芸術がゆえのこと。「いつもこう思うんです。『ええ、パウパウの死は確かにつらかった。でも私の実の子どもはまだ生きている』って。私は芸術のなかで闇を表現するタイプなのです。現実に起きてほしくないので」

「私のやり方は、自意識過剰にならないように、また当時どのように作ったのかは考えないように気をつけながら、今までの道のりを振り返る、というものでした」

「私のやり方は、自意識過剰にならないように、また当時どのように作ったのかは考えないように気をつけながら、今までの道のりを振り返る、というものでした」

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こちらの記事は Kinfolk Volume 31 に掲載されています

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