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  • Volume 49

Wim Wenders

ヴィム・ヴェンダース

アメリカ、ヨーロッパ、日本と場所を問わず、長編映画からドキュメンタリーまで、ヴィム・ヴェンダース監督はいつも動き続けている。80歳を迎えた今も、その勢いが衰える気配はない。 Words by SIMRAN HANS. Photos by KATIE MCCURDY. Styling by ASHLEY ABTAHIE. Set Design by ELAINE WINTER. Grooming by DANA BOYER AT THE WALL GROUP USING IS CLINICAL. Produced by VERONICA LEONE.

ヴィム・ヴェンダースは長距離フライト中に執筆することを好む。『ベルリン・天使の詩』『PERFECTDAYS』『パリ、テキサス』を手がけた79歳の監督には「飛行機で絶対に映画を観ない」という信念がある。「かつて何度か映画を観たことがあり、そのときは良い作品だと思ったのですが、後にその感想が恥ずかしくなりました。機内の空気には何か特別な成分が混ざっているのかもしれません」と持論を展開する。

そして上記はまさに、ムンバイに向かう機内で書かれた長文のEメールに綴られている文章だ。初めて訪れるというムンバイへは、数週間にわたりインドの5都市でヴェンダースが手がけた50本以上の映画のうち18本が上映される映画祭のために訪れることになっていた。ヴェンダースは自分自身を「旅人」として捉えているものの、この映画祭は彼の映画監督としての多作なキャリアを祝う、複数の大規模な回顧展のひとつである。

「家で机に向かって仕事をするのは苦手です。旅が私を自由にしてくれます」。創造性が自由にあふれ出すのは列車の中(「一番理想的な環境」)や飛行機など、移動中だ。そしてこのプロセスに欠かせないのが音楽だ。「ヘッドフォンをして窓の外を眺め、書き始めます」1

今年8月、ドイツ・ボンのブンデスクンストハレ美術館では、ヴェンダースの生誕80周年を記念して、そのキャリアを称える大規模な展覧会が開催される。半世紀にわたる映画やドキュメンタリー、写真、執筆活動を振り返る回顧展であるものの、ヴェンダース自身はいまだ現役であり、執筆活動も続けており、将来の夢も抱いている。具体的には、通常のSF映画とは異なる「ディストピアではないSF作品」をつくることを構想している。「戦争や暴力、独裁政治、深刻な貧困や不平等など、私たちは多くの耐え難いことを受け入れることに慣れてしまっています。このようなことがすべてなくなる世界が描かれる映画だけが、人々の心を開くことができると思っています」

ヴェンダースは永遠の楽観主義者であり、はるか 昔にアメリカンドリームを求めて故郷を飛び出したドイツのロマン主義者である。「故郷デュッセルドルフは、第二次世界大戦末期に大爆撃を受け、ほとんどが破壊されました」。戦争が終わった1945年に生まれたヴェンダースは、物心ついたときから旅に憧れていた。「私は廃墟の街で育ちました。廃墟以外の世界があるなんて、最初は知りませんでした」2

祖父が持っていた古い百科事典をめくりながら、「ほかの国はドイツよりもずっと美しい」ことに驚いたそうだ。両親に頼んで美術館に連れて行ってもらい、そして新聞を通して摩天楼やアメリカの都市、ピカピカの車、広々とした大通りの存在を知る。祖母は、ヴェンダースが地図で見つけた地名を解読するのを手伝ってくれたそうだ。「一刻も早く世界を見たいと思っていました」

VERSACE(LARA KOLEJI)のヴィンテージジャケット、YOHJI YAMAMOTOのアイウェアとトラウザーズ、私物のセーター

(1) 移動中に執筆する伝統は古くからあり、ウラジーミル・ナボコフは、妻が運転するオールズモビルの後部座席でアメリカを横断している間、『ロリータ』を書いた。『星の王子さま』の作者であるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、単独飛行中に読書や執筆を行い、時には小説を書き上げるために空港を1時間旋回することもあったという。

(2) ヴェンダースは、第二次世界大戦後、ナチズムの残虐行為と向き合いながら国を再建しようとしていたドイツで育った世代のひとりである。ドキュメンタリー映画の被写体となったアンセルム・キーファーも1945年生まれで、彼自身の作品を通じて戦争の歴史と明確に向き合っている。

たくさん歩く! 自分のペースを守る! 人の目を見て話す。

なかでもヴェンダースを魅了したのは、エドワード・ホッパーが描く黄昏時の絵画に登場するような、ホテルの部屋で待つ孤独な人物、荒涼としたガソリンスタンド、空っぽの食堂といったアメリカ像だった。デニス・ホッパーが1969年に監督したロードムービー『イージー・ライダー』に登場する不穏な無法者たちが追い求めるような、開かれた道と自由が約束されている、ロックンロールの世界そのもののような場所だと考えていた。1977年、ヴェンダースはアメリカに渡り、10年近く過ごし、偉大なアメリカ映画を撮ろうと試みた。そして1984年、『パリ、テキサス』を発表した。

「ひとり旅をするようになったのは、60年代から」というヴェンダースが、人生最初の冒険の旅に出たのは1966年。絵画を学ぶためパリへ行ったのだ。「この旅では、ジュークボックスのそばに立って、誰かが私の好きな曲の番号を押してくれるのをずっと待っていました」。ロック批評と映画批評を書き、自由な時間をパリのシネマテーク・フランセーズで過ごした。「自分が映画を撮れるのかどうか、まったくわかりませんでした」と当時を振り返る。

しかし数年後、ミュンヘンの映画学校に入学すると卒業生20人の男女の中で、卒業後1年目に映画を撮った唯一の人物となった。1970年に公開された『都市の夏』は、2018年に亡くなったオランダ人撮影監督ロビー・ミュラーとの長い共同作業の始まりだった。その後、ヴェンダースがもっとも信頼する、苦楽をともにした同志のひとりとなったミュラーについて「私たちは双子の兄弟のようでした」と回想する。ふたりは一緒に12本の映画を作り、「あらゆることを互いに教え合った」そうだ。

ヴェンダースは、自身を映画監督と名乗るのは「とてもうぬぼれた」行為だと感じ、映画監督としてのキャリアは「宇宙飛行士になりたいというのと同じくらい、私にとって可能性が低いものだった」と語っている。初期の作品では、カサヴェテスのゆるく自由な精神(1970年の『都市の夏』)やヒッチコックの緊迫したサスペンス(1972年の『ゴールキーパーの不安』)など、自身が敬愛する監督たちを手本にしていた。歴史劇(1973年の『緋文字』)にも挑戦したが、本人は失敗作だと考えおり、「自分には時代劇を撮る才能がないと痛感せざるを得ませんでした」と語っている。

YOHJI YAMAMOTOのジャケット、トラウザーズ、Tシャツ、UNIQLOのソックス

「その土地を理解すれば、 カメラの置き場所も、 ふさわしい登場人物や物語も見えてきます」

映画監督をやめて、批評や絵画の執筆に戻る覚悟はいつでもできていた。しかし1974年、聡明な9歳の少女の面倒を見ることになったジャーナリストを描いた低予算のロードムービー『都会のアリス』を撮り、この映画を通して「自分の表現が見つかり、大きな安堵を覚えました」と語っている。この映画は高評価を得て、ヴェンダースに新たな成功をもたらした。当時、『ニューヨークタイムズ』紙は「細かく計算された、上質で知的で最終的には感動的な映画をお探しなら、第12回ニューヨーク映画祭の一環として今夜上映される、この作品をお勧めする」と記している。ヴェンダース曰く、この映画は、「誰の力も借りずに」映画を作ることができることの証明であった。

ヴェンダースの「ロード・ムービー」3部作の第1作『都会のアリス』では、ドイツ人ジャーナリストがアムステルダム、ヴッパータールを経由してニューヨークからミュンヘンへと旅をする。ヴェンダースの物語はしばしば部外者の視点から語られる。登場人物はしばしば「通過者」であり、あるいは特定の視点から物事を見ている。「よそ者であることは特権だといつも思っていました。違った視点で物事が見れるし、地元の人たちよりもいろんなことに注意を払うようになるからです」。ヴェンダースのもっともロマンチックな作品であり、高く評価されている『ベルリン・天使の詩』(1987年)は、ベルリンへの街を見下ろすふたりの天使を通して綴る、ベルリンへのラブレターである。3ヴェンダースは、1970年代半ば以降繰り返し住んでいたベルリンの街を再発見する手段として、ベルリンを離れた8年間後にこの映画を制作した。

ヴェンダースの映画制作は、特定の場所に興味を持つことから始まる。「場所が決まってから、そこにふさわしい物語を考えます。どこでも起こりうる物語にはまったく興味がありません」。外国人観光客向けの名所ではなく、「リアル」な場所を見つける直感は、旅好きが高じて培われたものだった。「知らない街や風景を発見するために、地元の人に『おもしろい場所』を教えてもらおうとはしません。それは私が求めているものではないから。左折するように言われれば、私はあえて右折します」

ヴェンダースの近作『PERFECTDAYS』(2023年)は、渋谷のトイレの清掃員が、日常のささやかな楽しみを求めて自由な時間を過ごす姿を描いている。そこに登場する東京は、通常映画で描かれるようなカオスで喧騒に満ちた大都市ではない。ネオンが眩しいショッピングモールや混雑した横断歩道ではなく、ラーメン屋や古本屋、銭湯が舞台となっている。「ごく平凡で、時には人々から忘れ去られた場所でも、歴史が残した痕跡を見逃さなければ、多くのことが見えてくるものです」

ヴェンダースはこれまでにも、映画界の伝説的存在である小津安二郎を描いた『東京画』や、ファッションデザイナー山本耀司の『都市とモードのビデオノート』などのドキュメンタリー作品を通して東京を探求し続けてきた。『PERFECTDAYS』もまた、渋谷のアートプロジェクト「THETOKYOTOILET」を題材にしたドキュメンタリーになるはずだった。けれどもパンデミック後に東京に降り立ったヴェンダースは、この街が再び活気を取り戻していく様子に心を動かされた。そして、役所広司が演じる、主人公・平山にその物語を語らせることに決めた。「その土地を理解すれば、カメラの置き場所も、ふさわしい登場人物や物語も見えてきます」

ヴェンダースはフィクションとドキュメンタリーの両分野で幅広く活動してきたが、年を重ねるにつれて、「この区分はもう自分にとってあまり意味がないと感じるようになり、最近の2作では、その区分を取っ払いました」と書いている。やがてヴェンダースは、自分のフィクション映画では「いつも可能な限り真実を入れようとしてきたこと、そしてドキュメンタリーではフィクションの要素を取り入れることに熱心であったこと」に気づいた。たとえば、画家であり彫刻家でもあるアンゼルム・キーファーを追うドキュメンタリー『アンゼルム“傷ついた世界”の芸術家』では、ドレスの彫刻がまるで幽霊が宿っているかのようにささやく。また、アカデミー賞にノミネートされたドキュメンタリー映画『Pina/ピナ・バウシュ踊り続けるいのち』で観客は、没入感のある3D映像を通して振付家のパイオニアであるピナ・バウシュと新表現主義の「タンツテアター」を知ることになる。4「なぜ私はピナ・バウシュの舞台を見て涙を流したのか。なぜ彼女のパフォーマンスは、今までつくられたどんな映画よりも男女の関係について多くを教えてくれるのか。その答えは映画を撮ってみないとわかりませんでした。映画は探究するための最高の手段なのです」

映画監督、デザイナー、ダンサー、画家、写真家。ヴェンダースのドキュメンタリーの多くは、クリエイティブな人物にスポットを当てている。「全員が冒険家であり、作品は冒険物語である」と説明する。ヴェンダースは、小津、山本、バウシュ、キーファー、そしてブラジルの写真家セバスチャン・サルガド(『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』2014年)のようなドキュメンタリーの主人公たちは、「人間の心と人間の状態を探求してきたが、地球の表面を歩き回るのではなく、人々の魂の中に入り込み、未知の領域を発見した」と語る。

「ごく平凡で、時には人々から忘れ去られた場所でも、歴史が残した痕跡を見逃さなければ、多くのことが見えてくるものです」

ヴェンダースが次に開拓する未知の領域は“スロー”なプロセスで知られるスイス出身の建築家、ピーター・ズントーのミニマリズムの世界。長期にわたりロサンゼルス郡立美術館の再設計に取り組んでいる建築家だ。ズントーをフィーチャーした近日公開予定のドキュメンタリー映画『TheSecretsofPlaces(原題)』は、『ピナ』の時と同様、3Dで撮影している。「雑誌で見るような平面ではなく、建築を立体的に体験できる唯一のメディアが映画です」。ズントーはこれまで20ほどの建築しか手がけていないが、そのどれもが唯一無二の傑作だとヴェンダースは感じている。さらにユニークなのは、その手法だ。「ズントーのチームは小規模で、スタッフも数人だけ。必要だと思うものしか作らない」とヴェンダースは説明する。忍耐、正確さ、思慮深さ、実用性。ヴェンダースは、ズントー作品が持つこれらの資質に魅せられており、そのアプローチは「建築の中で『存在する』ことや『生きる』ことを、まったく異なる方法で実践している」と語る。

いかに生きるのが最善か。これは、ヴェンダースが生涯こだわり続けているテーマである。ドキュメンタリーでアーティストを深掘りすることも、フィクションで日常に細心の注意を払うことも、この思いが原動力となっている。最近では「よりよく生きるためには、気が散るものから自分を切り離すことがますます重要になってくる」と述べ、次のようなルールを掲げている。「飛行機では映画を観ない。家ではテレビをつけない。インターネットから距離をおく。携帯電話は日中、短時間しか使わない。SNSなんてすることすら考えない。たくさん歩く!木を身近に感じる!自分のペースを守る!人の目を見て話す。早く寝て、しっかり眠る(これこそが本当の贅沢です)。車の代わりに自転車に乗る」

今年の8月、ヴェンダースは80歳を迎える。「自分のレガシーには興味がありませんが、死んだ後も、私の映画が観られることを願っています」。2012年、ヴェンダースは妻のドナータとヴィム・ヴェンダース財団を設立した。この慈善団体は、ヴェンダースの全作品の権利を所有し、作品を永久に視聴者へ公開する権限を持つ。「作品の所有権は私にはありません」と語るが、この財団を通じて「作品自体が収益を上げ、いかなるアーカイブやプロデューサー、映画ライブラリーからも独立して存在し続ける」ことになる。映画保存の行為であると同時に、寛大さの表れでもあるのだ。5

節目となる誕生日は特別なことをしないそうだ。「愛する人たちと一緒に田舎で、私が愛してやまない老木の下で過ごします」

YOHJI YAMAMOTOのヴィンテージジャケット(LARA KOLE1JI)、YOHJI YAMAMOTOのシャツ

(3)『ベルリン・天使の詩』は、ヴェンダースと2019年のノーベル文学賞を受賞したオーストリアの作家ペーター・ハントケとのいくつかのコラボレーションのひとつである。2022年、『ニューヨーカー』誌はハントケを「文学界でもっとも物議を醸すノーベル賞受賞者」と評した。その理由は、ユーゴスラビア紛争における戦争犯罪人として起訴された初の現職国家元首であるセルビアの元大統領スロボダン・ミロシェヴィッチを支持したことにある。

(4) 3D映画製作の実験を行った監督はヴェンダースだけではない。2010年、ヴェルナー・ヘルツォークは3D技術を使って、ドキュメンタリー『世界最古の洞窟壁画忘れられた夢の記憶』を制作。フランスのヌーヴェルヴァーグのパイオニアであるジャン=リュック・ゴダールが撮影監督のファブリス・アラーニョと共同で3Dを主題とした映画『さらば、愛の言葉よ』(2014年)は伝統的な映画の常識を覆した。

(5) 財団のウェブサイトには、ヴェンダースの言葉が引用されている。「世界中の人が私の映画を見て、多くの人が影響を受け、いくつかの映画は名作やカルト映画と呼ばれるようになりました。この意味で、私の映画はもはや私に属するものではなく、あらゆる年齢、さまざまな国籍の映画ファンの記憶の集合体に属するものなのです」

YOHJI YAMAMOTOのヴィンテージジャケット(LARA KOLE1JI)、YOHJI YAMAMOTOのシャツ

(3)『ベルリン・天使の詩』は、ヴェンダースと2019年のノーベル文学賞を受賞したオーストリアの作家ペーター・ハントケとのいくつかのコラボレーションのひとつである。2022年、『ニューヨーカー』誌はハントケを「文学界でもっとも物議を醸すノーベル賞受賞者」と評した。その理由は、ユーゴスラビア紛争における戦争犯罪人として起訴された初の現職国家元首であるセルビアの元大統領スロボダン・ミロシェヴィッチを支持したことにある。

(4) 3D映画製作の実験を行った監督はヴェンダースだけではない。2010年、ヴェルナー・ヘルツォークは3D技術を使って、ドキュメンタリー『世界最古の洞窟壁画忘れられた夢の記憶』を制作。フランスのヌーヴェルヴァーグのパイオニアであるジャン=リュック・ゴダールが撮影監督のファブリス・アラーニョと共同で3Dを主題とした映画『さらば、愛の言葉よ』(2014年)は伝統的な映画の常識を覆した。

(5) 財団のウェブサイトには、ヴェンダースの言葉が引用されている。「世界中の人が私の映画を見て、多くの人が影響を受け、いくつかの映画は名作やカルト映画と呼ばれるようになりました。この意味で、私の映画はもはや私に属するものではなく、あらゆる年齢、さまざまな国籍の映画ファンの記憶の集合体に属するものなのです」

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こちらの記事は Kinfolk Volume 49 に掲載されています

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